
降格された星が、9年越しに微笑んだ。
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ある夏の夕暮れ、目の前に広がる山並みを眺めているとします。空はオレンジから紫へとなめらかに溶け、雲のひとつひとつが立体的に陰影を帯びている。完璧な情景です。しかし、もしほんの一瞬、その美しい稜線が粗いポリゴンの集合に崩れ、空が格子状のワイヤーフレームにチラついたとしたら、それを「見間違い」で片づけられるでしょうか。
荒唐無稽に聞こえるかもしれませんが、現代物理学の最前線では、この問いが大真面目に検討されています。「私たちの宇宙は、巨大なコンピューターが計算しているシミュレーションではないか」というのです。哲学者、物理学者、そして起業家の一部までもが、無視できない問いとして取り上げるようになっています。
この考えの歴史は意外と古く、根は哲学にあります。17世紀のデカルトは「我々は悪魔に欺かれ、偽りの世界を見せられているのではないか」と疑いました。20世紀には「水槽の中の脳」という思考実験が登場します。脳だけが培養液に浮かび、電気信号で偽の現実を見せられているという設定です。
転機となったのは2003年です。オックスフォード大学の哲学者ニック・ボストロムが発表した「シミュレーション論証」は、宗教的信仰でもオカルトでもなく、純粋な確率と論理によって構成されていました。
彼の論理はこうです。もし高度に発達した文明が、祖先の世界を再現する「祖先シミュレーション」を作る技術と意欲を持つなら、その文明は無数のシミュレーション宇宙を生み出すはずです。仮想の宇宙が「本物」の宇宙より圧倒的に数で勝るなら、確率論的に、私たちが「本物のたった一つ」に住んでいる可能性は限りなく低い。統計的には、私たちは仮想世界の住人である公算が高い、というのです。
物理学者の中には懐疑的な立場をとる者も多くいました。しかしその後、宇宙の性質を観察するうちに「コンピューターらしさ」を思わせる特徴が複数見つかり始めました。
私たちの直感では、空間も時間もなめらかに連続しているように感じられます。しかし物理学が明かしたのは逆でした。宇宙には、それ以上は分割できない最小単位が存在するとされているのです。
長さの最小単位はプランク長と呼ばれ、約1.6×10⁻³⁵メートル。時間の最小単位であるプランク時間は約5.4×10⁻⁴⁴秒です。これより小さな長さや短い時間は、現在の物理学では「意味をなさない」とされています。
デジタル画像を限界まで拡大すると、最後は四角いピクセルにたどり着きます。なめらかに見えた風景が、実は格子の集合だった。宇宙のプランク長は、そのような「現実のピクセル」ではないかと指摘する研究者もいます。冒頭で描いた山並みが粗いポリゴンに崩れる情景は、比喩ではなく宇宙の最深部の構造かもしれません。
宇宙には絶対の制限速度があります。光速、秒速約29万9792キロメートルです。いかなる情報もこれを超えて伝わることはできません。
シミュレーション仮説の支持者が注目するのは、この「上限の存在」です。あらゆるコンピューターには演算速度の限界があります。情報の伝達速度に上限を設けることは、有限の計算資源で巨大な世界を矛盾なく動かすための、合理的な「仕様」だと解釈できる、というのです。
ミクロの世界には、さらに奇妙な性質があります。量子力学によれば、電子のような微粒子は、観測されるまで明確な位置を持たず、確率の雲のように広がって存在するとされます。観測した瞬間に、初めて一点に「確定」する。
これはコンピューターゲームの描画手法に似ていると指摘されます。最新のゲームでは、プレイヤーが見ている範囲だけを精密に描画し、背後の見えない部分は計算を省くことがあります。「観測されて初めて確定する宇宙」は、見られていない部分の計算を省いているシステムの挙動に重なる、という見方です。
ここからは、現在実際に行われている研究の話です。
物理学者の一部は、シミュレーション仮説を検証可能な科学的仮説に格上げしようと試みています。2012年、ドイツとアメリカの研究チームは、もし宇宙が格子状のグリッド上で計算されているなら、超高エネルギーの宇宙線(宇宙を飛び交う高エネルギー粒子)の振る舞いに、わずかな「歪み」や「方向の偏り」が現れるはずだと予測しました。格子の目に沿った痕跡が残るという発想です。
近年では、物理学者メルヴィン・ボプソンが2023年に「情報力学の第二法則」を提唱しています。彼は情報そのものに質量があると考え、宇宙が時間とともに情報を圧縮・最適化している兆候があると主張しました。データ圧縮はコンピューターが効率化のために行う処理であり、彼はこの仮説を実験的に検証する方法も提案しています。
また、宇宙を記述する物理法則の根底に、データ通信で文字化けを自動修復するための誤り訂正符号に似た数式構造が見つかったという報告もあります。
ただし、誠実に付け加えておく必要があります。これらはいずれも決定的な証拠ではありません。プランク長も誤り訂正符号も、シミュレーション仮説なしで説明する理論は存在します。物理学界の主流は依然として懐疑的です。それでも、かつて「検証不可能な思考実験」とされた問いが、観測と実験の文脈で語られるようになったこと自体は、一つの変化です。
「世界が作り物かもしれない」と聞くと、虚しさを感じる人もいるかもしれません。しかし、たとえこの宇宙が計算の産物だとしても、あなたが感じる夕日の温かさ、愛する人の声、悲しみや喜びは、あなたにとって紛れもない体験です。仮想か否かは、その体験の価値を変えるものではありません。
むしろこの問いは、私たちが「絶対」と信じている物理法則さえ、より大きな何らかの構造の一部である可能性を示唆しています。現時点でわかっていることは「シミュレーション仮説を完全には否定できない」という程度にとどまります。答えを知る者は、まだどこにもいません。人類が自らの宇宙シミュレーションを構築する技術を持つ日が来れば、あるいは問いの意味も変わるかもしれない。それがいつになるかは、誰にもわかりません。
参考・情報源
本記事は、以下の公的機関・専門機関が公開する観測データや研究成果を参考に、 編集部が制作しています。最新の研究状況や一次情報については、 各機関の公式サイトもあわせてご確認ください。
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未知なる宇宙科学 ARCHIVES 編集部
NASA・ESA・JAXA・国立天文台などの公的機関が公開する観測データや研究成果をもとに、 宇宙科学のテーマをわかりやすく編集・制作しています。内容に誤りを見つけられた際は、 お問い合わせよりご指摘ください。
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